なりたい自分になる

東大ロー生の雑記。法律、アニメ、イラスト、ドラム、ビール、鉱物、時計などについて書きます。

創作は永遠の命を得るための作業である

 

僕が最も心惹かれるのは、創作です。

創作は、人は創作によって永遠の命を獲得できるかもしれないからです!(うさんくさい・・・?)

 

1.作品はその人の分身である

どういうことかというと、たとえば、人が紡ぐ言葉、えがく絵、奏でる音はすべて、本質的にユニークなものです。巧拙はかかわりありません。確かに、ありふれた表現、というのはありますが、基本的に自分のなした表現は、自分以外の人にはできないはずです。なぜならば、表現には、その人が歩んできた人生において獲得したすべての知識・経験、ものの考え方、好き嫌い等が反映されるからです。表現とは、そういった自分の内部にあるものが染み出して、外部的に認識できるような形で現れたものであり、その意味で、作品は自己の「分身」ということができます。

 

2.分身は死後も残る

人は死ぬと身体を失います。心も失います(※個人の宗教観にもよりますが私は霊的なものを一切信じないので、私の考えでは、身体(脳)が滅びれば自我や精神も完全消滅します。)

人は、死によって、未来永劫に渡って世界と接点を持つ方法の一切を失うことになります。自分だけが死んだ時点に永遠に取り残されて後に続くすべてが自分との距離を離し続けるようなイメージです。

人によっては、それの何がだめなの?と考える人もいますが、僕は世界と接点を持つ方法が失われることだけは怖いです。自分が死んでからしばらくして、自分を形づくるものと、自分が作り上げたものがこの世界からすべてなくなり、自分を知る人々の記憶からもすべて消えてしまい、誰からも省みられなくなったとき、その人は本当の本当に世界のどこにも存在しないものになるような気がするのです(神か輪廻転生でも信じればその思いは払拭できるのかもしれませんが、私は神を信じません)。

 

そこで、この思いを多少なりとも解決しうる唯一の手段が「分身」を残すやり方です。

作品すなわち「分身」によって、人は、時空を超えて第三者に影響を及ぼすことができます。たとえばプラトンの『国家』とか、夏目漱石の『こころ』とか、そういう作品は、今も人々に参照され、時と空間を越えて私たちに語りかけてきます。

その意味で、プラトン夏目漱石は、まだ「生きている」ということができます。

もちろん、彼らは生物学的にはとっくの昔に死亡しています。ですが、上で説明したとおり、プラトンらの作品はプラトンらの「分身」なわけで、しかもそれが今でも誰もが図書館や書店にいけばアクセス可能な形で存在するわけですから、今もまだプラトンらは生き続けている!といってもよさそうです。

 

そもそも、ある作品が人に影響を与える場面においては、その創作者が生物学的に生きているか死んでいるかは、そこまで重要な事柄とまではいえません。

たとえば、今生きているミスチルだって、もうすでに亡くなったXJAPANのHIDEだって、僕たちの耳には彼らの音楽が等しく参照されるわけです。確かに、今後新たな作品が生まれるかどうかや、ライブができるかできないかという点は大きな差異ではありますが、少なくとも作品自体から受けうる影響という意味では、やはり創作者の生物学的な意味での生死はあまり関係ないわけです。

 

生物学的な生死は、その人と直接かつ双方向のコミュニケーションを取れるか否かを左右するにすぎず、それに尽きるということです。外部的に認識可能な形で現れた表現は、個人の分身であると同時に、その人へのアクセスを生死を問わずに可能にするものです。今でこそSNSを通じてアーティストと直接かつ双方向のコミュニケーションをとることができる場合も増えてきましたが、大抵の場合は今まだ生きているアーティストだって、直接かつ双方向のコミュニケーションなんて取れないことが普通じゃないですか。

 

以上みたように、優れた創作をなした人は、生物学的な生を終えても、作品が「分身」として残り、誰かに影響を及ぼし続け、生き続けるわけです。

 

3.分身の残し方

ここで問題となるのは、そういった優れた作品をどうすれば「分身」として残すことができるかです。

まず、作品を残すには、一定の表現力・技術力を磨く必要があります。そのためには忍耐力も必要ですが、何よりも、絵を描くことや音を奏でることが好きでなければならないと思います。好きこそ物の上手なれということです。そして、好きの度合いが強いほど、一定の表現力・技術力を獲得していくスピードは速い傾向にあるのではないかと思います。

 

しかし、優れた作品を残すためにはそれだけでは足りず、人々の嗜好にマッチングしたものを作らねばなりません。人の好みに合っていないと、そもそも後世に語り継がれないからです。

 

一方では、自分の人生を投影した自分の分身を作る必要性があり、他方では、ある意味自分を曲げてでも人々の嗜好を踏まえてそれに即したものを作らなければならないという要請がある。今の私は、せいぜい第一段階の一定の表現力・技術力を磨く段階にあるので、そのような葛藤にはまだ直面しておりません。が、ゆくゆくは直面することになるのだろうなと思っています。画家のようになるならば、100%好きを優先していいかもしれません。しかし、職業作家となるならば、後者の要請は無視できないと思います。

なお、いわゆる「センスのある人」とは、自分を出すことによって、同時に自然と人々の嗜好にもマッチするものを作り出せる人のこと、あるいは、自分を出すことと人々の嗜好にあわせることとのミックスが上手にできる人のことをいうのではないかなーと考えたりしています。

 

ところで、人の好みは時代とともに変化し、すべての作品は時代遅れなものとなっていきます。どうすれば時代の変化に耐えうる作品を作れるのか。この点、村上春樹のエッセイ『職業としての小説家』によれば、その時代の人々にプラスであれマイナスであれ大きな影響を与えたものは、たとえ作品が後に手垢のついた時代遅れのものになったとしても、オリジナリティのあるものとして、後世にわたって参照され続けるようです。このことは、これまでに残された数々の名作を振り返れば、正しいように思われます。

 

4.踏み出す勇気

僕は、できれば1000年後も残るような作品を作りたいです。

宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史、今世界にいる人の数などを考えるにつけて、自分1人の人生はあまりに、あまりに、ちっぽけで短い。こんな短い間にできることはたかが知れているわけですが、自分の死後、遠い未来に生きる人に、自分の思いをロングパスでつなげることができたら、なんだか素敵な感じがします。

 

そんな才能あるわけないし、成人していまさら目指してもだめだ、1000年とかアホか、雑魚の分際でよくもぬけぬけと、というのは百も千も承知なのですが、僕としては、ゲームでいうリセットボタンを押してゼロから別の人生をやり直すことはできないし、踏み出すのをこれ以上遅らせるわけにもないので、自分が死ぬか、情熱が冷めるときが来るまで、勇気を持って挑み続けるしかありません。

 

そんなこんなで今日は、法律の勉強をやりつつも、Youtubeにあがっていた石田衣良さんの小説の書き方講座を見たり、アマゾンで小説の書き方の本を買ったりしました。

今後、法律の勉強・仕事と創作を両立できるのかが不安で不安で不安ですが、その点についてはこれからも考えていきたいと思います。